感動したい

【フリー小説】毒酒 #1

毒酒

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「こりゃ、とんでもねえクズだな」

男は目の前の妻に新聞記事を指さした。

「何の話かしら?」

「都内で毒殺だとよ。夫を殺したと妻が自白したらしい」

「ふーん。動機は?」

「夫の借金、浮気癖に加えて、DVまで受けていたそうだ。数え役満だな。けっ、もはやこいつが悪いとしか思えねえ」

「仕方のない殺人ねえ。何か他に方法はなかったのかしら……」

妻はため息をついた。

「はい、かしこまりました。ではよろしくお願いします」

卓は受話器を置くと、すぐさまパソコンを開く。

提案資料を作成しなければ。

忙しなくキーボードを打つ音。遠くから聞こえる怒号。小さなオフィスはいつもと同じく、がやがやと騒がしい。

つらい。

すぐるの日々はこの一言に尽きていた。毎日毎日残業ばかり。どうしてこんな会社を選んでしまったのだろうか。しかし家族がいる手前、そう簡単に辞めるわけにはいかない。そもそも、考える時間すら与えてくれない。まるで頭を空っぽにして働けと、洗脳を受けているようだ。

そのときふと、卓の視界の端に細身の中年男が見えた。社長の大久保だ。顧客と思わしき人物と一緒にこちらのほうにやってくる。卓の右隣は廊下になっていて、応接室はその廊下の先にあった。

卓は席を立ち、ロッカー越しに一礼をした。

その間、大久保はじっとこちらを見ていた。何かを訴えかけているような気がした。

何だ? お茶出しか? それなら専属の秘書に任せたらいいだろう。オレは関係ない。むしろ秘書が必要なのはオレの方だ。

応接室の扉が閉まると、卓は席についた。

仕事を再開してしばらくすると、急に応接室の扉が開いた。ふとそちらを見ると、大久保が外に出ていた。

もう終わったのか?

そして、大久保は静かに扉を閉めると、早足でこちらに近づいてきた。

「え?」

気づけば卓の胸ぐらは大久保につかまれていた。その顔はもはや鬼の形相だった。

「おい。何ぼーっとしてるんだ。客が来たらお茶出しするのが当然だろ!」

「し、しかし、秘書の方が……」

「口答えするな。今日秘書が不在なのは見てわかるだろ。そして客の一番近くにいるのはおまえだ! わかるだろ! 顔色を伺うのがおまえの仕事だろうが!」

卓の拳のにぎりが強くなる。秘書が不在かどうかなんて、あれで分かるわけないだろ。

「わかったら、さっさとお茶出せ。いそげよ」

「……承知しました」

大久保は胸ぐらの手を離し、早足で応接室へ向かった。卓はその姿を最後までにらんでいた。

「ひどいと思わないか?」

「それはひどいわ。そろそろ本気で辞めた方がいいんじゃない?」

妻の麻衣はオレの目を見た。あい変わらず、優しい目をしている。

「しかし、転職している暇なんてないし、何よりお金が心配だろ」

「それも、そうだけど……」

「まあ、大丈夫だ。その後、社長から飯の誘いがあったからさ。仲直りしてくるよ」

「そうなの。社長も悪いと思っていたのね。安心したわ」

卓も安心する一方で、何か収まりが悪いような気分だった。

誘われた時は、確かに反省したらしいことを言っていたが本当だろうか?

「ねえ、誕生日のことなんだけど」

「ん、どうした?」

そういえば、麻衣の誕生日に何かプレゼントをする約束だったな。

「財布がいいかなあ、と思って」

「財布? どうして財布なんか?」

「今の財布ぼろぼろだし。あと、お父さんのこと、忘れたくて」

「……」

「これを取り出すたびに、思い出しちゃって」

「でも、それ形見なんだろ?」

「うん。だから、物置にしまうだけ。思い出すのは、時々にしたいの」

「……そうか。そうだな、オレがいい財布選んでやるよ」

「ありがとう。あなた」

卓は決意した。今は耐える時期だということを。耐えて耐えて、耐えたその先にあるものが幸福というものだ。かの徳川家康のように、かのエジソンのように、オレはこの理不尽を耐え抜いてやる。

しかし彼は知らなかった。今後待ち受けている理不尽は、彼の想像を絶していることに。

次話

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