「こりゃ、とんでもねえクズだな」
男は目の前の妻に新聞記事を指さした。
「何の話かしら?」
「都内で毒殺だとよ。夫を殺したと妻が自白したらしい」
「ふーん。動機は?」
「夫の借金、浮気癖に加えて、DVまで受けていたそうだ。数え役満だな。けっ、もはやこいつが悪いとしか思えねえ」
「仕方のない殺人ねえ。何か他に方法はなかったのかしら……」
妻はため息をついた。
「はい、かしこまりました。ではよろしくお願いします」
卓は受話器を置くと、すぐさまパソコンを開く。
提案資料を作成しなければ。
忙しなくキーボードを打つ音。遠くから聞こえる怒号。小さなオフィスはいつもと同じく、がやがやと騒がしい。
つらい。
卓の日々はこの一言に尽きていた。毎日毎日残業ばかり。どうしてこんな会社を選んでしまったのだろうか。しかし家族がいる手前、そう簡単に辞めるわけにはいかない。そもそも、考える時間すら与えてくれない。まるで頭を空っぽにして働けと、洗脳を受けているようだ。
そのときふと、卓の視界の端に細身の中年男が見えた。社長の大久保だ。顧客と思わしき人物と一緒にこちらのほうにやってくる。卓の右隣は廊下になっていて、応接室はその廊下の先にあった。
卓は席を立ち、ロッカー越しに一礼をした。
その間、大久保はじっとこちらを見ていた。何かを訴えかけているような気がした。
何だ? お茶出しか? それなら専属の秘書に任せたらいいだろう。オレは関係ない。むしろ秘書が必要なのはオレの方だ。
応接室の扉が閉まると、卓は席についた。
仕事を再開してしばらくすると、急に応接室の扉が開いた。ふとそちらを見ると、大久保が外に出ていた。
もう終わったのか?
そして、大久保は静かに扉を閉めると、早足でこちらに近づいてきた。
「え?」
気づけば卓の胸ぐらは大久保につかまれていた。その顔はもはや鬼の形相だった。
「おい。何ぼーっとしてるんだ。客が来たらお茶出しするのが当然だろ!」
「し、しかし、秘書の方が……」
「口答えするな。今日秘書が不在なのは見てわかるだろ。そして客の一番近くにいるのはおまえだ! わかるだろ! 顔色を伺うのがおまえの仕事だろうが!」
卓の拳のにぎりが強くなる。秘書が不在かどうかなんて、あれで分かるわけないだろ。
「わかったら、さっさとお茶出せ。いそげよ」
「……承知しました」
大久保は胸ぐらの手を離し、早足で応接室へ向かった。卓はその姿を最後までにらんでいた。
「ひどいと思わないか?」
「それはひどいわ。そろそろ本気で辞めた方がいいんじゃない?」
妻の麻衣はオレの目を見た。あい変わらず、優しい目をしている。
「しかし、転職している暇なんてないし、何よりお金が心配だろ」
「それも、そうだけど……」
「まあ、大丈夫だ。その後、社長から飯の誘いがあったからさ。仲直りしてくるよ」
「そうなの。社長も悪いと思っていたのね。安心したわ」
卓も安心する一方で、何か収まりが悪いような気分だった。
誘われた時は、確かに反省したらしいことを言っていたが本当だろうか?
「ねえ、誕生日のことなんだけど」
「ん、どうした?」
そういえば、麻衣の誕生日に何かプレゼントをする約束だったな。
「財布がいいかなあ、と思って」
「財布? どうして財布なんか?」
「今の財布ぼろぼろだし。あと、お父さんのこと、忘れたくて」
「……」
「これを取り出すたびに、思い出しちゃって」
「でも、それ形見なんだろ?」
「うん。だから、物置にしまうだけ。思い出すのは、時々にしたいの」
「……そうか。そうだな、オレがいい財布選んでやるよ」
「ありがとう。あなた」
卓は決意した。今は耐える時期だということを。耐えて耐えて、耐えたその先にあるものが幸福というものだ。かの徳川家康のように、かのエジソンのように、オレはこの理不尽を耐え抜いてやる。
しかし彼は知らなかった。今後待ち受けている理不尽は、彼の想像を絶していることに。