感動したい

【フリー小説】毒酒 #3

毒酒

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すぐる。あそこから美人秘書が出てきたかと思うと、その後におまえが出てくるなんてな。なんの話してたんだよ」

とおるは応接室を指さし、からかうように言った。
彼女と食事の約束をしていた、だなんて口が裂けても言えない。

「……なんでもない。仕事の話だ」
「ほんとかー? この浮気者」
「うるさいな。彼女とは何もないよ。だいたい、社長とすでにできてるってうわさだろ」
「うーん。それもそうだな」

それにしても。

中川の話を思い出し、卓は顔をしかめた。

わからない。
どうして、和解で決着がついた話にそこまでこだわるのか。

シャツの胸元を触る。
この話をするたびに、つかまれた胸ぐらの感触が思い出されて、腹の底からぞわぞわとしたものが這いあがってくるのだ。
正直もう、勘弁してほしい。

「じゃあな!」

通勤カバンを手に持った透はさっと右手をあげた。
どうやら帰宅するらしい。
嬉しそうに目を細めている。

「おう、また明日」

彼のニコニコとした無邪気な笑顔が、卓の唯一の光に見えた。

卓は薄暗いバーのカウンターに座っていた。
隣には甘い匂いを漂わせる美麗な女性。
社長秘書の中川だ。

卓は相当酔いが回っていた。
それは、バー特有の落ち着かない雰囲気のせいなのか、ひっきりなしに酒を勧める中川のせいなのか、よくわからない。
ただ、一体ここの家賃はいくらなんだろうか、とかいう庶民じみた発想しか思い浮かばなかった。

「ねえ。卓さん」

声のしたほうへ視線を向けると、彼女がこちらをじっと見つめていた。
目を合わせた瞬間、胸が高鳴る。
大きい瞳。透き通った肌。
ほんのりと赤く、潤った唇。

吸い込まれそうになって、思わず目をそらした。

「すみません。お手洗いに行ってきます……」

逃げるように席を立って、店の奥へと向かった。
流し台から水を出し、両手にためて顔に当てる。

何をしているんだ。オレは。

からからにひからびたシャツで顔を拭い、鏡を見た。
顔が真っ赤であることは分かった。
しかし、うつろで視線が定まらない。

初めて訪れた高級レストランで、中川が言ったことを思い出した。

「私、社長とは何の関係もないんですよ」

だめだ、だめだ。
頭を振ると、今度は麻衣の顔が浮かぶ。

……

おぼつかない足取りで席に戻ると、卓は朦朧として言った。

「すみません、もう帰ります……」
「そうですか。もう少し居てくれたらよかったのに、残念です」
「それで……お代……の……ほうは……」

そのとき、視界がひっくり返った。

何が起きたかわからない。
天井の明かりが目の前をぐるぐると回っている。

「卓さん!?」

まぶたがだんだんと重くなる。

「卓さん! しっかり……して」

中川の声が遠くに聞こえた気がした。

「さ……ん。卓さん。起きて」

目がさめると、卓は止まったタクシーに横たわっていた。
外に中川が立っている。
頭が痛い。
胸のあたりに何かもやもやしたものが渦巻いていた。
吐きそうだ。

「う……。ここは?」
「いいから、動けますか?」

卓はなんとか身を起こし、中川に肩を担がれて外に出ると、二人でタクシーの前のマンションに入った。

「ここは、どこなんです?」

エントランスに卓の声がこだまする。

「私のマンションです。今夜は私の部屋に泊まってもらいます」

ふわふわとした意識のなか、それだけはまずい、と思った。

「それだけは、まずいです」
「でも、ふらふらじゃないですか。ご自宅に帰れるんですか?」
「帰れます。僕も男ですから……」

自分でも何を言っているか、よくわからなかった。

「そうだ。食事代……」
「私が持ちますから、大丈夫です。お気になさらず」
「数万円はしたはず。そういうわけには、いきません」

カバンのファスナーを開け、手探りで財布を探した。
しかしそれは一向に見つからなかった。
どうやら会社に忘れたようだ。

卓はため息をついた。

「……財布を会社に忘れたようです。せめて領収書ください。あとで半分払います」
「……わかりました」

中川は薄着のコートから紙切れを取り出し、それを揺らした。
らしくない仕草だ。
直感的にそう思った。

「これが領収書です」

彼女は自分のバッグから革の入れ物を取り出すとその紙切れを入れ、卓のポケットに忍ばせた。
それに見覚えがあるような気がしたが、素早い動きで明確に見えなかった。
そもそも、疲れて見る気が起きない。

卓は反射的にお礼を言った。

「ありがとうございます」
「こちらこそ、本日はありがとうございました。帰りはお気をつけて」

中川は一礼をすると、足早に奥へ去ってしまった。
ふと時計を見ると日付が変わっている。

急いで帰らないと。明日もあるし。……うっ。

限界が来て、エントランスのトイレに駆け込んだ。

目覚まし時計がじりじりと鳴り響く。
手を伸ばし、それを止める。

深いため息をつく。
隣を見ると、麻衣が静かに寝息を立てていた。

そのとき、

  っ!

激しい頭痛に思わず頭を抱える。
明らかに二日酔いだった。

昨日のことはあまり覚えていない。
オレはどうやって帰ったんだ? タクシー?

そのとき、はっとして床に乱雑に転がったカバンを取り上げて、中身を漁った。

財布がない。
やっぱり会社に忘れたのか……。

財布の記憶だけはなんとなく覚えていた。

ふと昨日来ていたスーツジャケットが目に入る。
右下のポケットが不自然に膨らんでいた。

まさか……。

手を突っ込み取り出すと革財布だった。
愛用している、いつものものだ。

卓はほっと胸を撫で下ろした。

おそらく、オレはタクシーで帰ってきたのだろう。
そして、ポケットから無意識にお金を払ったんだ。

しかし、どうしてあのとき、ポケットの財布に気づけなかったんだ?

少し気がかりだが、まあ、財布が見つかったことに越したことはない。
卓はさほど気にせずに、出社の支度を始めた。

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