感動したい

【フリー小説】花粉症候群

花粉症候群

寒さが厳しい冬が終わり、ポカポカと暖かい春がやってきた。しかし、春はその陽気さと共に、人々に不快感をもたらす。花粉である。花粉は人々の体内に入り、じわじわとその体力をすり減らす。その女もまた、例外ではなかった。Aはこすりすぎて赤くなった鼻をすすりながら、パソコンに向かって仕事をしていた。

「最近花粉症かしら。今までなったことがなかったのに」

Aはつぶやくと、ひとつくしゃみをした。目もひどくかゆいが、こすると悪化するのでがまんをしていた。

「さすがに、これだと仕事にならないわね。今日は定時で帰らせてもらおうかしら」

すると、つかつかと、Aのもとに中年の男がやってきた。男は、Aの部長だった。

「Aさん、例の案件の進捗はどうかね」
「ええ、順調です。しかし、花粉症がひどくて、それどころではなくなってきました。すみませんが、本日は定時で帰らせていただきます」
「そうか、体調を整えることも大事なことだ。お大事に」

部長はそう言うと、別のところへ行ってしまった。Aは将来有望なキャリアウーマンで、社内から一途の期待を寄せられていた。だから、本来花粉症などにかまっている暇などなく、とにかく市販の薬で治してしまおう、というのが彼女の考えだった。

薬局で花粉症の薬を買い、帰宅すると、Aはすぐに薬を飲んだ。普段は帰宅してからも、自宅のパソコンで、仕事に関する調べ物をしているのだが、さすがに今日は、そんな気分になれなかった。今日はすぐに寝ようと思って、昨夜の夕飯の残りを食べていると、急激な眠気におそわれた。薬の副作用かもしれないが、これはあまりにもひどい。不審に思って、薬が入っていた箱をよく見てみると、それは花粉症の薬ではなく、睡眠薬だった。

Aはそれを見て、衝撃を受けた。今まで、このような初歩的なミスをしたことがあるだろうか。きっと、花粉のせいに違いない。花粉で頭が回っていなかったせいだ。花粉さえこの世からなければ、私はこんなミスは絶対にしない。

Aはミスというものに対して、過剰なほどの恐れを抱いていた。それは、自身の完璧主義な性格からでもあり、今までの周りの圧力からでもあった。その結果、何か悪いことが起こると、それを自分ではない、何かのせいにするようになっていた。

とにかく、眠すぎてこれ以上食べられないので、仕方なく、食べかけの夕飯をラップに包み、シャワーを軽く浴びると、Aはそのままベッドで寝てしまった。

翌朝、目を覚ますと、全身が妙にだるく感じた。なぜかと思い、ゆっくり身を起こすと、頭がズキズキする。これも花粉症の影響なのだろうか。それとも、ただ単に風邪をひいてしまったのだろうか。

「うう。だめだ。今日は部長にお願いして、休ませてもらおう」

Aは、仕事用の携帯電話を手にとって、部長に連絡した。幸い今は繁忙期ではなかったので、部長は心よく承諾し、そして、Aをねぎらった。しかし、Aは不安に満ちていた。常に仕事に手をつけていないと、何か問題が起きそうで怖かったのだ。

「これは、花粉症のせいだ。私は悪くない。そう、これは、防ぎようがなかったの」

そのようにして、Aは気持ちを無理矢理落ち着かせ、症状を病院でみてもらうために外へ出かけた。

昨日飲んだ薬は、花粉症の薬ではなかったので、あいかわらず鼻水がひどかった。マスクをつけているが、しょせん気休めにすぎなかった。Aが鼻をすすりながら、病院まで徒歩で向かっていると、何か後ろから視線を感じたような気がした。

はっとして、後ろを振り返ると、数十メートル先に怪しげな男が見えた。真っ黒なコート、真っ黒なキャップ、そして、ご丁寧にサングラスとマスクをしている、典型的な不審者だった。男はゆっくりとこちらに近づいてくる。Aは背筋が冷たくなってきた。もちろん、風邪のせいではない。気がつけば、早足で病院に向かっていた。

なんとか病院にたどりつき、後ろを振り返るとあの男はいなくなっていた。Aはほっと一息つくと、病院の中に足を入れた。

医者いわく、やはりただの風邪だったらしい。風邪薬を何個かもらい帰宅すると、Aはどっとベッドに倒れこんだ。そしてしばらく、あの男のことが頭の中から離れなかった。帰りもよく注意していたが、気配は感じられなかった。周りで被害がある話はよく聞くが、まさか自分が経験するとは思わなかった。花粉症に加え、風邪、そして、ストーカーの被害に合いそうになるとは。Aの精神は、徐々にすり減っていた。これ以上考えると、発狂してしまいそうだったので、何も考えずに寝ることにした。

翌朝になると、Aの体調はもとに戻っていた。どうやら、風邪薬が効いてきたらしい。休んだのは一日だけだったが、Aはそれが数日のように感じていた。それほどまで、仕事に手をつけたくて仕方がなかったのだ。昨日の分を取り戻そうと思って、Aは意気揚々と会社におもむいた。

しかし、自分のパソコンを開くと、その手が止まった。自分が今まで、こつこつと準備していた資料が、パソコンの中からなくなっていたのだ。慌てて資料を探しても、まったく見つからない。そして、Aは気づいた。一昨日、作った資料を保存せずに、パソコンの電源を落としてしまったことに。その瞬間、Aはさっと血の気が引くのを感じた。しばらく途方に暮れていたが、無くした資料は二度と帰ってこなかった。Aは泣く泣く資料をいちから作成し始めた。

「進捗はどうかね。Aさん」

資料を大忙しで書き直している途中、後ろから部長の声が聞こえた。

「え、ええ。順調ですわ」
「なら、よかった。ところでその資料、一昨日完成したと言っていた気がするが」

Aの心臓はどきりと飛び上がった。冷や汗が止まらない。

「これは、今、そう、修正しているのですわ。間違いが見つかりまして」
「そうか。時間も無限じゃないから、ほどほどにな」

部長はそう言うと、いつものようにどこかへ去っていった。それからAは、ずっと生きた心地がしなかった。

なんとか仕事を終わらせ帰宅すると、Aは糸が切れた人形のように、ベッドに倒れ込んだ。もう何もしたくなかった。何もだ。花粉症に始まり、これまで受けてきた仕打ちは、あまりにも運が悪く、ひどすぎるものだった。そしてとうとう、Aの精神は限界を迎えたのであった。

Aはすっと身を起こし、ほこりのかぶったテレビをつけ、めったに飲まないビールのせんを開けた。この日のAにとって、日課だった仕事の調べ物なんか、もうどうでもよかった。心に溜め込んだストレスが、ダムのように決壊した気分だった。決壊したストレスを解消するために、Aはひたすら娯楽を楽しむのであった。

気がつけば、Aの生活はどうしようもなくなっていた。いつの間にか、長く勤めていた会社をやめ、あらゆる娯楽に手を出すようになっていた。そしてついには、大きな借金まで抱えるようになってしまった。Aは心身ともに、もうボロボロだった。もはや、廃人といっても差し支えなかった。ほとんど何もない部屋でただ一人、空腹の状態で寝転んでいると、キャリアウーマンだった頃の自分が思い出された。

あの頃の私は、働きがいのために働いているものだと思っていた。しかし、どうやらそうではなかったらしい。私はきっと、周りの期待を裏切らないように必死だっただけなのね。それは、人のために働いているようでいて、そうじゃない。嫌われたくないという自分勝手なエゴだった。

そして、そのエゴは、鉄のようにかたいが、もろく崩れやすい。あの花粉症がすべての原因ではなくて、それはただ私のエゴに、少しヒビを入れたのに過ぎないのね。崩れていったのは、紛れもなく私のせい。ぼろぼろにはがれて残ったのが、今の私。これが、本当の私なのね。

Aは起き上がると、売れなかったパソコンを立ち上げた。そして動画投稿サイトのアカウントを登録するやいなや、今まで気になっていたパソコンゲームについて実況する動画を取り始めた。その後、Aが有名な実況者になったというのは言うまでもない。

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