ユキは部室で正座をしていました。その後ろでリクがパソコンをカタカタと触っています。
「いやはや。やはり新作のエロゲーは、完成度が高いでござるな……!」
リクは満足げにうなずくと、ふとユキのほうを見て立ち上がり、その顔をのぞきこみました。
「白井殿は先ほどから何をしてるでござるか? しかめっ面で端正な顔が台無しでござるよー」
「カズキを待っているのです」
「カズキ、ですと!? もはや呼び捨ての関係になったのでござるか? さすがカズキ殿。手を回すのが早いでござる」
ユキは丸テーブルに目を落としました。
「……私、嫌われているんです。ただ話がしたいだけなのに、逃げられてしまって」
「そうでござるか」
「今日も来ないんじゃないかって不安なんです」
「……大丈夫でござるよ。カズキ殿は弱い男ではござらん。いつか白井殿と向き合う日が来るでござる」
そのとき、外から地面を踏む音が聞こえてきました。一歩一歩、踏みしめるような音でした。
「おおっと。では拙者は抜けるでござる。隣で行為を見届けるでござるよ!」
リクはとうっ、と忍者さながらの素早い身のこなしで隣の部屋に飛び込み、ふすまを閉めました。
そして、ガチャリと部室の扉が開きました。立っているのはカズキでした。
「おお。奇遇じゃん」
「お話、聞いていただけるのですか?」
「……ちょっとだけな」
カズキはユキの前にあぐらをかいて座りました。ユキは正座を改めました。
しばらくの沈黙。ユキは静かに口を開きました。
「カズキが」
カズキは真剣に耳を傾けています。
「カズキがなぜ私を避けるのか、私には分かりません」
「……」
「しかし、先日のおまじないを見て思いました。あなたは悪い人ではありません。まるで、周りを明るく照らす太陽みたいな人です」
カズキの目が見開いたような気がしました。
「だから、その……私はあなたを嫌いにはなりませんから、しっかりと現実に向き合ってください」
カズキはうつむきました。脳裏にあの日の記憶が浮かんだからです。
夕暮れ時。地面にうずくまって泣いている女の子は、妹のアカネでした。
カズキは彼女のもとに行くと、目の前にしゃがみ、白い歯を見せて言いました。
「兄ちゃんが迎えに来たぞ!」
「……お兄ちゃん、膝が痛いの」
見ると転んだのか、左膝をひどく擦りむいていました。
「大丈夫だ。兄ちゃんはケガを治すことはできないけど、おまじないをかけることはできるぞ」
「おまじない……?」
「そう。よーし、いくぞー」
両手を組んで、目の前でこねくり回しました。
「んーーーみゃ!」
手のひらでアカネの膝を掴みました。しかし傷口が当たらないようにそっと。
「……これが、おまじないなの?」
「そうだ。効果抜群だろ?」
また、にんまりと笑みを浮かべました。
「なんか、変なのー!」
二人はなんだかおかしくなってきて、しばらくずっと笑い声を出していました。
カズキがアカネの手をつないで家路を歩いていると、
「兄ちゃん」
「なんだ。アカネ」
「アカネ転んだ時ね、すごく痛くって、すごく悲しくって、雨がざーざー降っていたの」
「……うん」
「でも、お兄ちゃんのおまじないでね。それがびゅーんって飛んで、ぴかーってなったの。ぴかーって」
カズキははっとしてアカネの顔を見ました。まぶしい笑顔でした。
「だから、お兄ちゃんはアカネの太陽なんだよ!」
「……」
現実に戻ると、カズキの目には涙が溜まっていました。
「……ハハ。それだけかよ」
「……」
「それだけ伝えたくて、オレをあれだけ追いかけてたってゆーのかよ」
「そうです」
カズキは涙声を押し殺して言いました。
「……オレは、逃げてたんだ。ずっと。ここにある漫画を読んで笑って、それでアカネを忘れようとしていた。でも、それはできなかった。忘れようとすればするほど、虚しさが増すんだよな」
カズキの目から水がこぼれ落ち、鼻をすする音が聞こえました。
「逃げちゃダメなんだよなあ。いくら逃げても、あいつは帰ってこねーんだがらざあ……」
「……楽観的になりたいなら、客観的になることだ」
カズキはぐちゃぐちゃになった顔を上げました。
「精神科医の言葉です。楽して逃げる前に、やるべきことがあるはずですよ」
カズキは口を真一文字に結び、目をこすりました。
「そうだよな。ユキちゃん……サンキューな」
立ち上がって、部室の外に出ました。
「ちょっくらアカネに謝ってくるわ」
そう言って、カズキはユキに手を振りました。微笑んで手をふり返しました。
カズキの姿が見えなくなった頃。隣の部屋ですすり泣く声が聞こえてきました。
ユキがふすまを開けると、その姿に呆れて思わず腰に手をつきました。
「いい話でござる。いい話でござるよおお!」
彼の記憶と同じように、空は美しく茜色に染まっていました。
カズキは仏壇の前に座って、手を合わせました。
そして手を膝に戻し、目を開けると仏壇を見上げました。
「久しぶりだな、アカネ。お兄ちゃんが来てやったぞ。なんてな。ほんとはおまえそっくりの友達につかまっただけなんだー」
線香の煙がゆらゆらと揺れています。
「なあ。アカネ」
カズキは頭を下げました。
「すまなかった。兄ちゃんはバカだ。大バカだ。おまえから逃げたって、忘れたって、何も解決しねーのに」
そっと仏壇を見上げました。
だから、お兄ちゃんはアカネの太陽なんだよ!
「……なんか昔のこと思い出しちゃってさー。膝小僧すりむいたおまえがオレのことなんて言ったと思う? 太陽だってさー。おかしいだろ」
また、熱いものが胸に込み上げてきました。
「兄ちゃんはもう、逃げない。だって、兄ちゃんはみんなの太陽だから。太陽は逃げずに明るく照らすものだから」
その目が熱くなりました。
「これは約束だ……だから……だから、今夜だけは泣かせてくれよ」
一度あふれた涙は止まらず、カズキは一晩中泣き続けました。
カズキは部室で漫画を読んでいました。暗い様子はなく、無邪気に笑う声が聞こえてきます。
そっと扉が開きました。ユキでした。
「やっほー! ユキちゃん」
「こんにちは、カズキ」
見るとユキの膝には白いガーゼを巻かれています。
「そのガーゼはどうしたのー? 珍しくケガでもした?」
「はい。お恥ずかしい限りですが、体育ですりむいてしまいました」
「ちょっと、こっちおいでー」
「……?」
ユキは靴を脱いでカズキの元へ向かいました。
「オレはケガは治せないけど、おまじないはできるぞ」
「おまじないって、あれですか?」
「そうそう。よーし、いくぞー」
カズキは両手をこねくり回しました。
「んーーーみゃ!」
手のひらでユキの膝をつかみました。しかし傷口に触れないようにそっと。
「効果抜群、だろ?」
「やっぱり、変ですね。そのおまじない」
二人は口をそろえて笑いました。
そして、ずっとずっと、笑い声が響いていましたとさ。
《カズキ 茜色の記憶 完》