少女は、病室の扉の前にいた。幼馴染が不慮の事故にあったのだ。特に命に別状はないとのことだが、彼は頭を強く打ったらしく、全治には数週間はかかるそうだ。
少女は不安に思いながら、目の前の扉を開けた。包帯で頭を巻かれた少年は、窓から満開の桜を眺めていた。
入り口が開いた音に気が付いたらしく、彼はゆっくりとこちらに振り向いた。その顔は以前と比べて、生気がないように思えた。少女は少年のもとに駆け寄って、言った。
「ねえ。大丈夫なの? とっても心配したんだよ。これ、おみあげの花束。とってもきれいでしょ。ここに置いておくね。それでね」
「あの、すみません」
少年が話をさえぎった。いつもの無邪気さはなく、その顔は真剣だった。どうやら様子がおかしい。彼は続けた。
「あなたは、どちら様ですか……?」
その瞬間、少女は頭が真っ白になった。
「え……?」
そして、彼の母親から聞いた言葉を思い出した。頭を強く打ったらしい、という言葉を。
「もしかして、私を忘れちゃったの……?」
少年は黙って、窓から遠くを見た。まさか、本当に。
すると少年は、ぱっとこちらを振り返り、手を広げておどけた。
「なんてね。冗談だよ〜。やーい、引っかかった、引っかかった」
それは、いつもの少年だった。少女は驚きのあまり手で口を隠した。そして、安堵のため息をついて言った。
「もう。縁起でもない冗談はやめてよね」
「ごめん、ごめん。それで話の続きは?」
少女は、みあげ話を楽しげに話した。少年はそれを面白おかしく聞いていた。いつもと変わらない光景だった。
「じゃあね。また来るね」
「うん」
少女は少年に手を振り、病室を去った。少年は笑顔で手を振っていた。
扉が閉まると、病室はしんとした空気に満ちた。彼は振っていた手を静かに降ろして、ため息をついた。
「ごめんな」
つぶやくと少年は頭を抱えた。正しい記憶を思い出そうとすると、決まって頭痛がくるのだった。
彼女は自分のことを忘れたのかと言ったが、それはあながち間違っていなかった。しかし、単純に記憶が消えてなくなる、というわけではなかった。
「やっぱり、おかしい」
どくどくと痛む頭を押さえながらも、少年は気づいていた。記憶にいる黒い鳥、カラスの数が尋常ではないことに。
少年の記憶には、至る所にカラスがいた。普通、カラスにここまで思い入れがあるはずはない。
少年が窓から眺めていたのは桜などではなく、枝にとまっているカラスだった。
彼は怖かった。この記憶を許してしまうことに。そうしたら、自分が自分でなくなってしまう気がするのだ。彼は謎の記憶に飲み込まれないように必死に戦っていた。
しかし不幸中の幸いか、記憶喪失ではなかった。よかった。大事な幼馴染の顔を忘れなくて、本当によかった。
数週間後、少年は無事退院し、学校に通い始めることができた。数週間のブランクは彼にとって大きいものだったが、なんとか周りに追いつくことができた。
少年の生活は、入院前と少し変わっていた。
学校終わりに図書館へ向かうのが彼の日課だったが、退院してからは夕方になると真っ直ぐ家に帰るようになっていた。それに対して母は心なしか喜んでいた。
そして、無意識に光物に対して敏感になっている気がした。あるとき、自動販売機の足元がまぶしくて近づいてみると、小銭が落ちていた。
自分のポケットに収めたい気持ちになったが、我慢して自動販売機のおつりのポケットに収めた。
少年は内心、自分がカラスに近づいていることを疑ったが、たいしたことはないと考えていた。
ある日。少年が下校していると、裏路地から何やらいい香りがした。少しの寄り道ならいいだろうと思い、その奥へと向かった。裏路地は表と違い、ひんやりとしていた。
奥へ進むと、それはゴミ箱から発せられていることがわかった。飲食店裏のぼろぼろで汚らしいゴミ箱だった。少年はわくわくして、ゴミ箱のフタを開けた。しかし、中を見るとすぐにそのフタを閉めた。
少年は冷や汗をかいた。
なんてことだ。
腐りかけの生ゴミをおいしそうだと感じてしまうなんて。その瞬間、少年は吐き気をもよおし、走って路地から出ていった。
その夜。少年はなかなか眠りにつけなかった。夕飯が食べられず、腹が空いていたこともあったが、それよりも記憶の中のカラスたちが騒々しかったのだ。
考えることをやめても、羊を数えるように、どこからかカラスが一羽飛んでくる。それに続いて次々と何羽も飛んでくるのだった。少年はそれでも必死に寝つこうとした。
翌日は休日だった。しかし、寝不足で少年の目は死んでいて、もはや発狂寸前だった。
「だめだ。だめだだめだだめだ」
少年は気付けば、電車に乗っていた。行く当てはなかった。強いて言うなれば、周りのカラスが飛んでいく方に向かっていた。
そして着いた場所は古い神社だった。その鳥居からは年季が感じられた。本殿に向かうと像がまつってある。
少年はそれをよく見てみた。三本足の奇妙なカラスだった。神々しいものを感じる。
そのときカラスが一羽飛んできて、その上に乗った。彼は力なくそれを見つめていた。カラスが口を開いた。
「少年。なぜここに導かれたか、分かるか」
「……いいえ。分かりません」
「あの事故の前に、我々にした行いを思い出すのだ」
「記憶のカラスが邪魔で、思い出せません」
「我々カラスに石を投げつけたのは、覚えているか」
「それは……」
確かにその記憶はある。しかし、それは。
「それは、僕の幼馴染を守るためです。彼女の弁当を荒らされそうになったから」
「そいつを守るためだったら、何をしてもいいと言うのか。我々を殺すことになっても」
「……」
確かに反省するところはあったかもしれないが、しかし……。
「我々もやりすぎたところはある。そいつに関しても、おまえに関しても。だから少年。おまえの記憶をもとに戻そうではないか。それでいいだろう」
「……」
「我々は賢い生き物だ。それを忘れるでないぞ、少年」
気付けば目の前のカラスはいなくなっていた。そして、記憶の中からも。すべてが解決されたようだった。
しかし、少年はしばらくうつむいて帰らなかった。遠くでカラスが鳴いているのが聞こえた。
後日。教室でいつものように授業を受けていると、窓から黒い何かが入ってくるのが見えた。ハチだ。
「おい、ハチだ」
クラスの男子がそう言うと、クラス中がパニックになった。
女子たちは教室の角へ逃げ、男子たちはどうしたものかとあたふたしている。先生は落ち着くよう指示するが、まったく効いていない。
そのうち、一人の男子が上履きを脱ぎ、机に止まっているハチに近づいた。
「勝手に教室に入った罰だ!」
そう言って、上履きでハチを潰そうとしたその時。
「やめろ!」
席についていた少年が怒号をあげた。クラス中がしんと静まり少年を見た。ハチはそのまま、きれいに窓から飛び去っていった。