感動したい

【フリー小説】教え

教え

 妻は最近、機嫌が良くないようだった。そして青年は、その原因に心当たりがなかった。細かく言えば心当たりはあったのだが、それは残業で帰りが遅くなったからなのか、料理の出来をほめなくなったからなのか、休日かまってやれなくなったからなのか。何か特別なきっかけがあったかもしれないし、ささいな出来事が身体中を回る毒のように、少しずつ効いたのかもしれない。ただ一つわかることは、この凝り固まった疎外感をほぐすことは、到底不可能に近いものだということだった。
 青年はオフィスの席に着くなり、ため息をついた。
「おい、どうした。朝から」
 付き合いが長い、隣の同僚が声をかけた。
「いや、身内の問題さ。君には関係ない」
「そうか。何かあったら、ためらわず相談してくれよ」
 青年は正直、同僚にこのことを話したかったが、それをためらった。彼女に一番近い存在である僕が解決できないのに、彼に解決できるだろうか。そして、これ以上彼に借りを作りたくはなかった。有能である同僚は、要領の悪い青年をことあるごとに手伝っていた。青年は妻にも同僚にも、なんともいえないモヤモヤとした感情を抱えたまま、朝の仕事に手をつけはじめた。
 夜十二時過ぎ。いつもの時間に帰宅すると、妻はリビングにいなかった。どうやらすでに眠っているらしい。青年はテーブルのラップに包まれた夕飯を手に取った。皿はぬるく、しめっぽい。青年は皿を電子レンジに入れ、ダイヤルを回した。
「出来立ての料理を食べたのはいつの日のことだろうか」
 青年は電子レンジの前でつぶやいた。どうしてこうなってしまったんだろう。
 そのまま夕飯を食べ終わった青年は軽くシャワーを浴び、妻と背中合わせに寝転んだ。すぐに寝つくことはできなかった。
「もしかしたら、ずっとこのまま妻と距離を保ったままなのだろうか。死ぬまでずっと。しかし、どうすればいい。今さら妻に謝ろうたって、何が原因かわからないんだ。そうだ、妻に何かサプライズをしてあげるのはどうだろうか。だめだ、余計な物を買うなと怒られるだろう」
 結局何も手立てがつかないまま、気づけば青年は眠りに落ちていた。
 その夜、青年は奇妙な夢を見た。真っ白の空の下に青々とした広い草原があって、青年はその真ん中でただ寝転んでいた。ふと身を起こすと、どこからともなく白い服で包まれた女神が現れた。青年は彼女と初対面ではないような気がした。彼女は青年に諭すように言った。
「明日、行ったことのない文房具店にいき、新しい筆記用具を買うのです」
 青年は「やけに似合わないことを言うな」と思うと、女神はふっと消えていなくなってしまった。
 それから目が覚めると、青年は夢のことを忘れていた。睡眠不足の目をこすり、リビングに向かうと、妻が一人粛々と朝食を食べていた。
「おはよう」
「おはよう」
 できるだけ明るく言ってみたものの、妻の返事はそっ気ないものだった。席につき、目の前に用意された目玉焼きに手をつける。その後しばらく、無言で機械的に朝食を口に運んでいく状況が続いた。とうとうその沈黙に耐えきれず、青年が口を開いた。
「最近上司がうるさくて、参ってしまうよ。ああ言えばこう言う。反論するロボットなんじゃないかと疑っているくらいだ」
「それは、あなたが悪いんじゃないの。ちゃんと話を聞けば、わかってもらえると思うけど」
「なんだって」
 カチンときた。僕はただ共感して欲しいだけなのに、なんだその態度は。
「もういい。君に話した僕がバカだったよ」
「ちょっと」
 止める妻をよそめに、青年は朝食を置いてそのまま外へ出ていった。
 なんなんだ一体。昔はあんなヤツではなかったはずだ。少しでも仲良くしようとした僕が間違っていたのだ。
 信号に足を止め、ふと横を見ると文房具店があった。古くからあるようで、それは注意しなければ見落とすような影のなさだった。
 青年は、今朝の夢を思い出した。確かペンを買えと言っていた気がする。どうせ今日は気分も上がらないだろうから、気晴らしにでも一つ買おうか。青年は店内に入り木製のペンを一つ買った。
 その後、青年はオフィスで仕事に取り掛かった。すると、不思議と身内との関係と反比例するかのように、順調にことが運んだ。新しく買ったペンを見ていると、自然とやる気が起きてくるのだ。その様子を見ていた隣の同僚も、目を丸くして驚いていた。上司もまた、いつになく嬉しそうだった。青年は今朝、妻が言っていたことを思い出した。確かに上司は悪い人ではない。しかし、彼の機嫌がいいのは僕のおかげだ。彼女のおかげではない。
 あっというまに一日がすぎ、今日は普段より少し早く仕事を切りあげることができた。青年が意気揚々と自宅に戻ると、やはり妻は先に寝ているようだった。青年は寝室に向かい妻の寝顔を見てにやにやと笑うと、夕飯を食べにリビングへ向かった。
 青年はいつもと同じく妻に背中を向け、ベッドに横たわるとため息をついた。
「今日の仕事は良かったものの、これが毎日続くとは限らない。それに、良かったことはほんの少しだけだ。もっと精進しなければ」
 しばらくすると青年はまた草原のなかにいた。そしてまた、どこからともなく女神が現れ、青年に言った。
「あなたは仕事で、自分のことばかり話しているようです。自分のことばかりではいけません。よく相手の話を聞くのです」
 青年は、翌日言われたことを会社で実践した。すると、自分がいかに自己中心的であったことがわかった。仕事はまたしてもうまくいき、周りの評価も少しずつ変わり始めた。
 こうして、青年は毎日夢のなかに出てくる女神から言われたことを、忠実にこなしていった。すると、日に日に青年の仕事に対する周りの評価が上がっていった。
 青年が家に帰ると、妻はいつも通りベッドに横たわっていた。今日は昇進の話があったにもかかわらず、青年は少し悲しい顔をしていた。いつもと同じく、夕食とシャワーを済ませ、妻に背を向けてベッドに座ると、ため息をついた。
「ここ数日、自分に起こっていることは信じられないようだ。夢かと思っているよ。確かに夢の教えを実行しているんだけど。はは」
 青年は妻のほうを見た。呼吸で肩がゆっくり上下している。
「でも、ちっとも嬉しくないんだ。ちっとも。今まで君と過ごした思い出にくらべると、こんなのまるでミジンコだ。仕事とか正直どうだっていい。昇進につながる教えよりも、君とつながる教えをくれないか」
 青年は妻にたいして背を向けて寝転び、眠りについた。
 青年はあの草原に立っていた。女神は来ていない。遠くを見渡せど、いくら待てども、やってくる気配はなかった。青年はあきらめたように顔を伏せた。すると後ろに気配を感じ、振り向いた。女神だった。とても悲しそうな顔をしている。
「ごめんなさい。あなたが苦しんでいるのは、仕事が原因だと思っていた。だから仕事に厳しかった父の言葉を思い出して、毎日耳元であなたに伝えていた。でもそうじゃなかったのね」
「いや、僕もそうだと思っていた。昇進の話をされて気づいたんだ。だから君は悪くない。今までありがとう。そして本当に、悪くしてごめん」
 青年は妻に一歩近づき、その身を抱きしめた。その瞬間、妻は糸が切れたように泣き始めた。

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