ハア……ハア……。
焦点が定まらない。
ハア……ハア……。
僕の前で血を流して倒れているのは紛れもなく、イブキだった。
「イブキ……!」
彼女のもとへたどたどしく歩み寄ると、その身を起こした。柔らかい感触が伝わる。
先生が駆けつけ、その姿を見た瞬間にたじろぐ。
「……早く救急車を呼べ! 急げえ!」
周りに向かって叫んでいた気がするがはっきり聞こえなかった。
オサムの頭はなにもかも拒絶していた。真っ白で何も考えることができない。何も。
気づけば目の前に救護服の男性がかがんでいた。イブキは担架で運ばれている。
「……君も一緒に来るか?」
「僕は……いいです」
「そうか」
救急車のサイレンが遠くに聞こえた。
ふと肩を叩かれたような気がした。振り向くと先生だった。
「ついていかなくてよかったのか?」
「……はい。僕は大丈夫ですから」
「無理、するなよ」
「はい」
そして、おぼつかない足取りで歩き出した。
扉を横に開く。そこは教室ではなく理科室だった。金属の匂いがする。
意識は朦朧としていた。
無意識に足が奥へと向かう。
オサムはそれの前に立つと、歩みを止めた。
ガラスの筒はホルマリンで満たされており、その中に黄土色のりんごがポツンと浮かんでいる。
オサムはその蛇の装飾が施された金属のフタを開け、腕を突っ込み、無理矢理それを取り出した。
りんごはドロドロとして、もはや原型を止めていなかった。
「これは『禁断の果実』なんだよ」
ゆらゆらする意識のなか、イブキの言葉が思い出された。
「食べたらダメなんだよ。エデンの園から追放されるから」
「イブキ……」
彼女との記憶がフラッシュバックする。
「あんた、目障りなのよ。消えて」
恐怖で満ちたイブキ。
ヒステリックに発狂するイブキ。
そして、頭から落ちる、光を失った瞳の、イブキ。
「……僕も」
僕も、追放されよう。
この平和で腐ったエデンの園から。
彼は手に持った『禁断の果実』を思い切りかじった。
そして、
ドサリ。
床に倒れる音が、辺りに虚しく響いた。
皐月波の都 決別ノ章
……まぶしい。
まぶた越しに伝わる日の光に、オサムはゆっくり目を開けた。
目の前にぐちゃぐちゃのリンゴが落ちている。
僕は……死ねなかったのか。
しかし、何かがおかしい。
理科室の床がこんなにボロボロなはずはない。
「うっ……」
ゆっくりと身を起こし、周りを見てみた。
オサムの目が丸くなる。
「これは……!?」
理科室はボロボロに朽ちていた。
窓ガラスは割れ、洗い場には錆や苔がつき、壁は崩れて鉄筋があらわになっている。
オサムは思わず後退りをすると、木の根っこらしきものに引っかかって尻餅をついた。
「何だ? 何が起きたんだ……?」
呼吸が荒くなる。
僕が倒れている間に何が起きたんだ?
いや、もしかしてこれは……夢? それとも天国か?
オサムは立ち上がって、外を見た。
どうやら理科室だけじゃないらしい。
学校中の壁が崩れ落ち、ツタが絡まり、まるで廃墟と化していた。
人は一人も見当たらない。
「……」
動こう。そう思った。これは夢なのか、現実なのか、そんなのはどっちでもいい。
僕はもう、死んだも同然なのだから。
ツタに絡まった扉から廊下に出た。
……やっぱり、誰もいない。
オサムはしばらく教室を見て回っていたが、生徒も教師もだれも見つからなかった。
あるのはほこりを被った机と椅子。
黒板は見たこともないような剥がれかたをしている。
もはや自然に還る一歩手前だ。
こうしてみると、あれから途方もない年月が経っているようだった。
僕だけを残して。
オサムは席につき、頬杖をついて外を眺めた。
枠だけになった窓からくる暖かい風が、オサムの髪をサラサラとなでる。
心地いい。
窓から見える中庭は緑で覆われて、青々としている。
オサムの肺が清々しい空気に満たされる。
空気がおいしいとは、こういうことだろうか。
高校はかつてないほどの緑に包まれていた。
あれほどまでいた人たちは消えて無くなり、草花に打って変わった。
きっと、この世にはもう僕しか存在していない。
どうしてみんなと一緒に、消してくれなかったんだ。
オサムはそう思った。
一度助かっても絶望が消えたわけじゃなかった。
絶望は絶望のままだ。
むしろ助かったことで、いっそう虚しさが増していた。
彼は思い立って、崩壊している教室の端に立った。
暖かい風がほほに当たる。ここは三階だ。
身を委ねれば楽になるだろう。
待っていろ。イブキ。
体が傾いたその瞬間、頭から落ちるイブキがいきなり目の前に現れた。
紺色のセーラー服、滑らかな髪、そして、光のない黒々とした瞳はこちらをまっすぐに見つめている。
はっとして悪寒が背筋を伝い、思わず尻餅をついた。
動悸が激しくなる。
「ハア……ハア……。なんで。なんで死なせてくれないんだよ、イブキい!」
叫び声が校内にこだますると、辺りは静寂に包まれた。
オサムは三角座りをした。
ザザア……。
どれほど経ったかわからないが、遠くから音が聞こえた気がした。
波音だ。
おかしい、ここは都会のど真ん中だぞ。
ふらふらと立ち上がり、遠くを見る。
はっきりと見えないが、あそこから聞こえているようだ。
飛び降りがダメなら……。
オサムは教室を出て、下駄箱に向かった。
住宅街もやはり人が住んでいる様子はなかった。
学校と同じくボロボロで、草木が絡まっている。
誰もいない。大人も子供も、男も女も、そして彼女も。
いつもの賑やかさはなく、風と葉っぱがこすれる音しか聞こえない。
オサムは一歩、また一歩と歩みを進めた。
この際、死ねるのなら何だっていい。
あいつがいない世界なんて、どうだっていいんだ。
そして、それで彼女を殺した罪を償えるのなら、それでいい。
波音が近くなる。
オサムはうつむいた。
その顔は不気味に微笑んでいる。
ああ。もう少しだ。
広めの下り階段が目に入る。
その先に海はあるようだ。
足取りは重いのに、なぜか心は軽い。
もう少しで会いに行けるよ、イブキ。
階段の上に立って、その下を見る。
僕は、君に会いたくて、仕方がないんだ……!
その瞬間、体がかたまった。
驚きで目が丸くなる。そして、その目に熱いものが込み上げた。
階段の踊り場。
波打ち際に倒れているのは紛れもなく、イブキだ。