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卓は椅子の背もたれに体を預けながら、資料を眺めていた。
午後から客先で打ち合わせがあるのだ。
しかし、資料はすでにできている。
一応と思い、最後の確認を行っていた。
「おい、卓」
聴き慣れた声がした。
振り返ると透だった。
「どうした?」
「社長がおまえをお呼びだぞ」
「社長が?」
また社長か。
もう勘弁してくれ。
「おい! いよいよ昇進だな!」
透が笑って卓の肩を叩く。
卓も笑ったが、その顔は少々ひきつっていた。
「単純だな。社長お呼び出しイコール昇進じゃないからな」
「まあまあ、プラスに考えようぜ!」
卓は席を立ち、社長室へ向かう。
社長室は応接室の隣にあった。
卓は息を整え、ドアを軽くノックをした。
「はい、どうぞ」
大久保の力強い声が響く。
「失礼します」
こちらも負けじと声を強め、ドアノブをひねり、前に押しだす。
窓際に見えるのは、木製の重厚な社長机。
大久保はその上に両肘をついて、じっとこちらを見ていた。
いや、にらんでいたに近い。
卓は固唾を吞み込んだ。
オレは何もしていない、何もしていないはずだ。
「ドア閉めろ」
ドスの効いた声。
卓は後ろ手にドアを閉めた。
大久保はこちらに手を招いた。
目つきが異常だ。
以前の飲みの席で「かっかっか」と笑っていた面影は微塵も感じられない。
卓はきびきびと彼の前に向かう。
ここで、引いてはだめだ。
何もしていないのだから。
大久保の口がゆっくりと開く。
「単刀直入に言うが」
濃い眉をしかめる。
「これは、なんだ?」
大久保は机上の紙をひらりと手に取った。
上部には「経費精算書」と太文字で書かれ、右上には「佐藤卓」の文字がある。
「経費精算書……?」
どうして、経費精算書をオレに見せてくるんだ?
交通費か?
しかし、最近は客先に行ってない。
「これが、どうされたのでしょうか?」
「三月十日。この日に見覚えがあるだろ」
三月、十日……?
一週間前。
その日は、特に忙しかった覚えはない。
強いて言うなら、秘書の中川と食事に行ったくらい。
「いえ、特に何も……」
紙にシワが寄る。
大久保の手に力が入るのがわかった。
胸ぐらを掴まれた過去がよみがえる。
思わず胸を押さえて言った。
「ほ、本当にわかりません」
「しらばっくれるな! この領収書を見てもわからないと言うのか!?」
領収書……?
卓は経費精算書に貼り付けられた二枚の領収書を見た。
すると、その顔がみるみるうちに青ざめる。
そんな……バカな……!
どちらも見たことのある店名だった。
それは中川と食事をしたレストランとバーの名前だった。
中央には数万の金額が刻まれている。
そして、経費精算書の枠には「接待飲食費」の文字があった。
つまり、食事代を会社の経費として精算したのだ。
卓の頭に「横領」の二文字が浮かぶ。
「おまえ、とんでもないことをしてくれたな……!」
「ち……違う」
頭が真っ白になった。
卓はポケットから財布を取り出し、レシートを漁った。
中川から食事の領収書をもらっていたことを記憶していたからだ。
しかし、何度探してもそれが見つかることはなかった。
「ち、違うんです!」
「何が違う? おまえの名前だろうが」
「違う! それはオレが書いたんじゃない!」
「ほう。じゃあ、誰が書いたと言うんだ?」
「それは、中川……さんです!」
可能性はあいつだけだ。
「中川? 中川とはオレの秘書のことか?」
もったいぶった言い方の大久保を見て、嫌な汗が背中を伝った。
まずい予感がする。
その表情は変わらないものの、その目は何か勝ち誇ったような感じがした。
「なるほど。おまえは中川と二人で飯を食いに行ったんだな?」
「……はい」
「おまえ、オレが中川と関係があることぐらい、わかるよな?」
卓の目が大きく見開く。
中川は社長と何の関係もないと言っていたはず、なのに。
「……」
「まあ、私情はこの際どうでもいい。それよりも、その秘書の中川がミスをしたと。おまえのせいではないと言うんだな」
「……はい」
「おまえは、あいつがマッキンゼー出身だということを知っているか?」
マッキンゼー……だと!?
あの大手コンサルティング会社の。
「いえ、知りませんでした」
「あいつはプロだ。ここに来てから経理のミスを一度もしたことがない。三年間ともにして、一度もだ。そんなやつがこんな初歩的なミス、すると思うか? ええ?」
確かに、社員同士の飲食費を間違えて接待費にするミスというのは、普通はあり得ない。
しかし
「でも、オレは本当に何もしていない」
「それは、何か証拠でもあるのか?」
「それは 」
卓は思わず黙ってしまった。
何もしていないのだから、証拠などあるはずもない。
それに運悪く、最近は時間に余裕があった。
アリバイもない。
「……これは、立派な横領だ。数万円の少額であろうと、関係ない」
「……」
「どうする? 本当はここで首を切ってもいいんだが、知っている通り人手不足でね。それにおまえは共に飲んだ仲間だ。オレにも情はある」
大久保は持っていた経理精算書を机に置き、すっと二本の指を立てた。
「二百万。これで、穏便に済ませてやる」
卓の全身に鳥肌が立った。
二、二百万……
大久保は左手で机を開け、メモ用紙と通帳を取り出した。
通帳を開き、メモ用紙に日付と番号を書く。
そして、それを卓に差し出した。
「期限は来月だ。もし払わなかったら、どうなるかわかるよな?」
大久保は静かに席を立ち、社長室を出ていった。
メモ用紙を見ていた卓は、次第に呼吸が乱れていくのを感じた。
金を払って会社に残るか?
それとも、金を払わずに会社を切るか?
彼の体をむしばむ絶望感はその膝を折り、床につく鈍い微かな音だけが社長室に響いた。