海沿いでバーテンダーをやっていると、変わった客がやってくるものだ。
ゆらゆらと白く輝く地平線の上空に、輪切りのレモンのように淡く、きいろい満月がぽっかりと浮いていた夜。
私はいつものように、ロックグラスを磨いていた。
ちりんちりん
入り口を見てみると、そこには若い女性が立っていた。
飲み込むタイミングを虎視眈々とねらう背後の常闇。ベージュのワンピースは、それに負けじと咲く一輪の花。
これは珍しい
私は思った。ここで酒を振る舞っていると、海の男が寄り付くものだ。今日も例外になく、奥で漁師たちが馬鹿騒ぎをしている。
「いらっしゃいませ」
彼女に声をかけた。どうやらバーが初めてらしい。あたりを見てそわそわと揺れている。
「こちらへどうぞ」
私は彼女をカウンターまで導いた。
まあ。初めては誰にでもあるものだから。
そういった暖かい気持ちだ。彼女は静かにカウンターにつく。最近長いこと使われていなかったメニューを差し出した。
「何になさいますか?」
彼女は依然として落ち着かなかった。
不安という深海をふわふわと彷徨うパステルカラーの海月。
もしかしたら、メニューがカタカナばかりで、何を頼んだものか迷っているのかもしれない。
「……お決まりになりましたら、お呼びください」
「あの」
私は彼女を見る。深く、凛と澄んだ声。
「きれいで、光輝くカクテルを」
今どきの若い女性らしい注文。しかし、それがよかった。
海の輩はとにかく早く酔いたくて、アルコールがきつい、単純なものばかり頼む。まったく、つまらない。
「かしこまりました」
私は準備に向かった。久しぶりにバーテンダーの腕がなる。
洗練された手さばきでシェイカーを振り、消えて無くなるほど透明なグラスにゆっくりと注ぐ。
コースターを添え、彼女の目の前にそれを静かに置いた。
「お待たせいたました。ブルームーンです」
その淡い青のカクテルは、まるで木製の舞台に立つ、哀れで美しいヒロイン。
そして、窓からさすスポットライトに照らされ、よりいっそう輝いていた。
彼女は不思議そうに、それをよく観察すると、手に持って勢いよく飲んだ。
驚いた。一気飲みは危険だ。
案の定、彼女は咳き込んだ。私は急いで水を彼女の前に差し出した。彼女はそれを飲み、深呼吸をした。
どうやら落ち着いたらしい。
彼女はゆっくりとその口を開いた。
「ありがとうございます。久しぶりに外出できて、気になっていた場所にやってこれました。こんなに美しくおいしいお酒、初めてです」
「それは、嬉しい限りです」
「ついでに何ですが、私の身の上話でも聞いていただけますか」
「ええ。お時間はいくらでも」
彼女は深く息を吸った。彼女は今にでも消え入りそうな泡沫だった。
「私は生まれてこのかた、肩身が狭い思いをしてきました。友達という友達はおらず、ましてや出会いなど。そもそも、月に一度しか外に出られない決まりになっています」
相当家系が厳しい環境で育ったのだろうか。
「マスター。私はいつか、良い人に出会えると思いますか? 私のもとへ訪れる王子をひたすらに、ただひたすらに、待つことしかできないのでしょうか?」
王子と聞いて『ロミオとジュリエット』を思い浮かべた。そして、答えた。
「長いことやっていますが、似たような悩みをお持ちの方は多いようです。その方々に共通している解決策は一つ。自分を貫くということです。邪魔する運命に流されてはいけません。我を持って運命に抗えば、いつかは報われるというものです」
「運命に抗えば、いつかは報われる……」
「はい。あきらめてはいけません」
その瞬間、彼女ははっとして、小銭をカウンターに置き、外へ飛び出していった。
これでよかったものか。
私はその様子を見ていると、扉の向こうから水しぶきの音が聞こえた。
まさか。
私は急いで入り口を開けたが、彼女はどこにもいない。海を探したが、やはりその姿はなかった。
闇から響く波音は死へと導く子守唄。
手遅れだったか。
その時、遠くでカジキがはねるのが見えた。いや、カジキではなかった。月明かりに照らされた上半身は人の姿に見えた。
それを見た瞬間、私は呆然と立ち尽くした。
バーカウンターにあるのは、小銭よりも一際美しい虹色の貝殻。それは運命に抗う者の決意。