S氏は植物学者だった。彼はまだ見ぬ植物を見つけるために、世界中を飛び回っていた。あるときは熱帯地域におもむいて、強烈な悪臭をはなつ花々を観察し、あるときは深海におもむいて、海藻の調査をした。世にありふれた植物も、そうでない植物も、彼はすみずみまで研究しつくしていた。
ある休日のこと。彼が近所の食品店へ向かっている途中、奇妙な花屋を見つけた。その店は全体的にまがまがしく、誰にも寄せ付けない雰囲気が漂っていた。彼はその独特な雰囲気を味わったことがなかった。そもそも、この道中に花屋があった記憶もない。
S氏は遠くから少し、店を覗いてみた。どうやら置いてある草花は、一般的な花屋と変わらないらしい。しかし、S氏はそこに何か新しいものを感じた。新しいものといっても最新のものという意味ではなく、むしろ斬新のものという意味だった。まだ研究していない植物があるような予感がして、S氏は少しうずうずしてきた。
「とって食われるわけではあるまい。少し入ってみよう」
S氏は、一歩ずつゆっくりと店内に入った。飾られている植物は、どれも研究しつくしていたが、入っている鉢植えがヒョウ柄や水玉柄など、奇抜で独特であるせいか、いつも見ているものと違って見えた。
「いらっしゃい」
突然隣から声をかけられ、S氏は驚きの声を発した。声をかけたのは老婆であった。みすぼらしいエプロンに身をかためた老婆は、隣のカウンターの奥にいた。どうやらここの店長らしい。まったく気が付かなかった。
「何か気に入ったものはあるかい」
「いえ、ここにあるものはすべて調べつくしていますので」
「そうかい。物知りなんだね」
「ほとんど趣味みたいなものですから」
S氏はそう言うと、店の奥へ向かった。その最奥は、ほとんどガラクタ置き場のようなものだった。予備の鉢植えが重ねられており、そのすみにはヒザほどの観葉植物が置いてあった。
「ここは売り場ではないだろう。……これですべてか。面白いものはなかったが、それが普通だ」
そうして外に向かってきびすを返したとき、S氏は足を止めた。後ろから物音が聞こえた気がしたのだ。そして、その音は明らかに重ねられた鉢植えが発する音ではなく、黒板を引っかくような、不快で不吉な音だった。
S氏はオカルトに興味がなかったが、予測できないものに対しては心底おびえていた。ここまで彼が研究を徹底してこれたのは、この予測できないおびえを取り除こうとする性格のおかげでもあった。
S氏はゆっくりと、店の奥へ振り向いた。ねずみなのか。いや、ねずみであってくれ。不可解なことがあると、その日は眠れなくなるのだ。彼は老婆にこのことを尋ねようかと考えたが、それはできなかった。この店にねずみがいるかどうか尋ねるのは失礼にあたるからだ。だいいち、あの微かな音が聞こえるわけがない。S氏は仕方なく自分で、音がしたあたりを調べてみることにした。
鉢植えの周辺をよく見てみたが、壁に穴が空いている様子もなく、そこに何かがいた形跡もない。鉢植えまわりではないとすると。S氏はその隣の観葉植物を見た。最初は暗くてよくわからなかったが、注意してよく見てみると、それは見たことのある植物だった。
マンドラゴラ。ヨーロッパや中国などに広く分布していて、紫色の花を咲かせる。その根は昔、鎮痛剤として使われていたらしいが、毒なので基本的に摂取してはいけない。よく物語のなかで、この根を引き抜く際に正気を失わせるような悲鳴を上げるような話はあるが、そんなものはしょせん、おとぎばなしだ。
「なにかあったのかい」
S氏が驚き振り向くと、老婆が後ろに立っていた。この老婆は気配を消して近づくのが妙に得意らしい。
「ここから音が聞こえたのですが、わたしの気のせいだったようです。では失礼します」
「秘密に気づいてしまったようだね」
S氏は立ち止まった。
「秘密、ですか」
「そう。これは世にも貴重なマンドラゴラで、その根は万能薬になる。ただし、この根を引き抜くときは注意しなければいけない」
「まさか」
「そいつの悲鳴を聞くと、発狂するからね」
「そんな話があるわけがない。それはおとぎばなしの世界だ」
「じゃあ、そこから聞こえた音はなんだというのかい」
「それは……鉢植えにスピーカーを仕掛けてあるからだ」
S氏はそのマンドラゴラの根本に手を当て、思い切り引き抜こうとした。しかし、寸前で手を止めた。もし、仮にもし、本当にそのようなマンドラゴラが実在していて、それがこれだったのだとしたら。引き抜いた瞬間に、おぞましい悲鳴を上げるのなら。わたしは死に至るだろう。二度と手に入らないほど貴重な植物を目の前にして。植物学者として、それはあってはならないことだ。それに第一、店の奥にスピーカーを仕掛けた植物を置く意味がないではないか。むやみに引き抜くのはやめよう。しかし引き抜かないとなると、この正体を知ることができなくなる。このまま、この謎に満ちた植物を放っておけるのかというと、それもまた、植物学者としてあってはならないことだ。
「引き抜くのかい」
なぜか老婆はS氏を止めなかった。その声は死の決意に満ちているようにも、そして彼を試しているようにも聞こえた。S氏はその手を離し、ため息をついた。
「おばあさん。この品、おいくらですか」
「それは売り物じゃないんでね。すまないね」
「これで、いかがでしょうか」
S氏はポケットから財布を取り出し、そのなかから札を数枚とると、老婆に見せた。老婆は少し、考えている様子を見せた。
「……いや、やっぱり売れないね」
「では、これでどうです。私の全財産です」
財布からすべての札束を取ると、老婆はあきれたように言った。
「あきれたもんだね。あんたの熱意に負けたよ。持っておいき」
S氏はマンドラゴラを抱えると、一目散に店から去っていった。
その様子を見届けると老婆は入り口に向かい、店のシャッターを下ろした。
その瞬間、カウンターの奥から電話が鳴った。老婆は早足で電話のもとに向かうと、その受話器をとった。
「わたしだよ。……あの男のことかい。ああ、うまくいったね。バレてしまうかとヒヤヒヤしたけどね。……その点は大丈夫だよ。時間はたっぷりある。あの男は自分で自分の首をしめるのに夢中なのさ」